奥さんにレコードプレーヤーを買ってもらったので吉祥寺のディスクユニオンとかでひたすらレコードを買って聞いていた。
マイルス・デイヴィスは外れだった。
フォーレの録音が悪かった。
squarepusherは回転数が早かった。
ダフニスとクロエは合唱が判で押したようで単にクレッシェンド、デクレッシェンドを聞いているようだった。
サザンは初期が良い。
デレク・ベイリーはジョン・ケージのようだった。
デレク・ベイリーの伝記を買ってまだ読んでいなかった。
2018年1月31日水曜日
レコード
2018年1月23日火曜日
2018/1/23
今日は、上司がいなくて、散々な一日だった。
雪がまだ解け残っていた。
昨日とはぜんぜん違う。
雪が降っている最中と、解け残って徐々に解けていく雪とは、空間の質がぜんぜん違う。
色々な人と喋った。
机があって、生活が変わったのかどうか。
わからない。
本も読めなくて字も書けない一日なら終わりだ。
私は多忙の為読み書きの出来ない人間だ!
2018年1月22日月曜日
2017/1/22
PCから 2018年1月21日
それはとんでもない違いだ。
今まで、机に就いて何かを入力できる環境ではなかった。
机でキーボードを打てるというのは、ぜんぜん違う。
このキーボードは、二万五千円したのだった。
今日は、職場の飲み会だった。
政治みたいなものが強力に働いているのが目に見えてわかった。
そういうものを、上の兄みたいに「くだらない」とか「つまらない」とか言うのもいいけれども、それを期待しなければ、別の形態を創出しなければならない。
例えば、民衆全草の上理論。
あるいは、全員自然に還る。
自然に還るとは、死ぬことだ。
2018年1月15日月曜日
兄弟会
上の兄と真ん中の兄と自分とで集まって話した。
それぞれ、とんでもない曲者である。
真ん中の兄は、現在、巨大な都市計画に一枚噛んでいる。
上の兄は、冗談みたいに美味いコーヒーを出してきた。
子供部屋があった。
知育でもしているのだろうか。
寿司が捨てられた。
どんどんワインが明けられていった。
スピーカーからビートルズ、宇野常寛から3.11、北朝鮮工作員からフランス人、フィリピン、ザハ、モンティ・パイソン、ねこぢる、東浩紀から中島敦、國分功一郎、DATテープ、ボナンザ、クリエイティビティ、進化論、さらに話は続いた。
あの日のことは、作品にしなければ収まりがつくまい。
2018年1月11日木曜日
2018年1月9日火曜日
2018/1/9
身体的に限界である。
腰を叩いていたら肩が疲労して痛い。
本格的に、科学的に身体のケアをしなければならない。
今日の雲はとても良い塊をしていた。
ラジオの内容とピッタリだった。
フランスでは移民が何百万人も押し掛けていた。
machinedrumの曲をSpotifyで聞いた。
Spotifyは、仕組みは知らないが、ダウンロード販売しているような曲をランダムで流す。
無料だった。
そういう仕組みがあるのかもしれない。
レコードプレーヤーが欲しい。
レコードとCDとレーザーディスクとiPodがあれば、この世に存在する全ての曲が聞けるのだろうか。
それは音楽ではない、と、ハイレゾの人は言うだろう。
それは思想ではない。それは小説ではない。それは絵画ではない。それは詩ではない。それは彫刻ではない。それはライブではない。それは歌ではない。それは動画ではない。それは本ではない。それはラジオではない。何も流れていない。
確かに、何も流れていないのだろう。そこには何も流れていない。なぜなら、生きていないからだ。
生きていないからだ!
2018年1月5日金曜日
十六茶
世界はまた、澄明さを取り戻す。
今まで、年齢のせいにして、勉強に勝手に限界をつけていた。
具体的には、大晦日に東京の一部では雪がちらつき、その後は今朝まで、バカみたいに晴れていた。
ミスチルの「優しい歌」が流れる。
夜は2日、3日と月が影を作るくらい光っていて、「今日は月がすごくよく見えるわよ」と、年寄りが言う姿があった。
2018年1月3日水曜日
2018/1/3
三が日が過ぎた。
昨日、真ん中の兄と会った。
結婚祝いに、うちらの地元まで来てくれた。
安藤忠雄や、宇野常寛、ジャコメッティ、ミスチル、フィリピン、フランス語の話などした。
フランス人が母親の家にホームステイしているから、その人からフランス語を習えという話になった。
いろんなものを食べながら。
今日は、手応えない仕事だった。
早めに帰ってきたが、何の勉強もしてない。
2018年1月1日月曜日
2018/1/1
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
去年はほとんど本を読めなかった。
15冊は読みたい。
したら、その15冊は、一体どのように選べばよいだろう。
賭けのようなものだ。
月の光で影が出来るほどだった。
年越しの瞬間は地方局のオーケストラを掛けていた。
本棚を作った。本を作者できちんと集めるということは、したことがなかった。
被った本がいくつか見つかった。
古井由吉について。
いまだに定見がない。すごいのかすごくないのか。すごいとして、何がすごいのか。言語なのか内容なのか。新しさなのか。あれは、新しいのか。
お前は何を分かっているというんだ。
何か具体的なことを言うのが憚られる。
誰がどうした。
誰がどうしてどうなった?
宮川賢のセリフである。
タオル掛けと歯ブラシが、どの家庭にもある。
個人がいるところ、独房でも、家庭である。
私は独房に住む。私は家庭を持っている。
基礎だけの家もある。迷路のようになっている。
あれは、あるいは迷路の基礎だったのかもしれない。
政財界チャリティー歌謡祭という番組を見た。おめでたい、正月に丁度良い番組だった。
荻窪で、動物の死骸を見た。
意味はわからなかった。
伊福部という苗字は、伊福部昭‐伊福部崇以外には親族以外でその苗字を見たことがなかった。
仕事を笑顔でする。